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方位学:大吉方のみに移動して江戸幕府を開いた徳川家康!

      2017/11/23

 

 

 

 

大吉方のみに移動して江戸幕府を開いた徳川家康

 徳川家康の移転方位を調べてみますと、驚くことに少年時代より凶方位を使った痕跡が全くみられません。転々として大吉方位にのみ移動して、信長、秀吉にもなしえなかった、完全なる天下統一を手中にしたのです。

 徳川家康は、天文11年(1543年)12月16日に岡崎城に生まれています。幼名は竹千代といいます。この誕生日は陰暦ですから、これを太陽暦に換算し直すと、天文12年(1543年)2月10日生まれになります。この天文12年は、七赤の年ですから、家康の本命星は癸卯七赤金星になります。

今川義元の人質時代

 竹千代(家康)7歳の頃は、今川義元が東海で威を誇っていました。7歳の竹千代は、忌まれた岡崎より東の静岡(今川)へ人質として引き取られました。これが天文18年(1549年)一白の年です。一白の年の九星盤をみてみますと、東方位には八白が在位しています。
 東方位の八白は、七赤生まれの竹千代にとって吉方位です。つまり、この人質で行った静岡は、なかなか望んでも得られない好機会の貴地方移転となるわけです。ここに人質なのに、強運な家康がみてとれます。運命の法則は、たとえそれが人質でも、入獄でも、捕虜でも、方位が吉方なら不幸中の幸となって、英知はぐくまれ、影の協力者が登場し、敵中に味方を生じるような魂と魂の親和がおこって、死が生に変わるのです。

 東の吉方位を使えば、発育に大切な肝臓が強健になります。このことは、7歳の発育盛りの竹千代にとって、肝の枝葉の神経を養い、五感を鋭くするという効果をもたらし、童子たちの石合戦に、負けるはずの少数組が勝つことを見破ったり、機を見るに敏な確かな眼が身についたのです。これ能力は少年時代の人質の地で養われています。

 今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に敗北したころは、まだ静岡の今川方に竹千代は人質の身でした。普通でしたら、敗れた今川残党組に竹千代は首を打たれたと思われますが、ここにも竹千代の強運は続き、危難にも遭わず、無事に岡崎へ帰国しています。身を託した今川の負け戦にも関わらず、十数年ぶりで親元の岡崎へ戻っています。家康18歳のときです。これを方位でみてみますと、静岡から岡崎は西方位になります。帰国した年は、永禄3年(1560年)八白の年で西方位には一白水星が在位しています。つまり、本命星七赤の家康は、一白吉方へ移動したことになります。

 竹千代も加冠して家康と名乗り、既に18歳の成人。人質から解き放され、偶然と言えるかどうか、一白吉方へ移動したことは、風雲児によく見る例で、家康の天運のしからしめた自然行動であろうと思われます。

 
 西の吉方を利用すれば、肺が丈夫になりますが、家康は西の徳を長年受けて、肺活量も至極活発であり、従って胃の消化力も盛んになるという、あの健康で福相の肖像画のような容姿になったのです。健康運を確保した智の巡り合わせが、江戸三百年の土台を作ったともいえます。

 徳川家康の本命星は七赤です。七赤生まれの人間性は、その象意より「最後の欲望には手を選ばず」ということになり、欲の前には肉親も犠牲にすれば、主も師もない、非道の性格をはらんでいます。こうした性格を本質にもつ家康ですから、実の孫である千姫の悲歎も犠牲にすれば、主君であり、しかも孫婿に当たる豊臣秀頼を自刃させてまで、天下統一という自己の野望を満たしたのです。しかし、この非常ともいえる家康の性格と行動は、裏を返してみれば、長い年月にわたって続いた戦争殺生をなくして平和をもたらしたということになり、その功績は多くの人々に賞賛されたことでしょう。

戦国時代に終止符を打った江戸への開城

徳川家康が駿府より江戸へ開城したのが天正18年(1590年)8月1日五黄中宮の年です。五黄年に東北東(寅)に当たる江戸へ、八白大歳の大吉方で七赤の家康が進出したわけですが、この吉方は死者も蘇るという天徳の大きい吉方のため、徳川幕府三百年の基礎が築かれたのです。

 環境の法が秀才をつくり天才をつくるということになるわけですが、住居の法則という環境法が徳川家康のような偉人もつくるのです。家康が出現したからこそ、殺し合いの絶えなかったあの戦国時代に終止符が打たれたのです。

 さて、家康がこれまで吉方位を取って成功してきたのに、みなさんは、なぜ千姫や秀頼を犠牲にするような非道を家康に運命づけたのか、という疑問が浮かんでくるでしょう。これは先に述べた七赤生まれの人間性とも関係があるのですが、気学でもう少し詳しく調べてみるとよくわかります。

 それは、家康の月命星をみればわかります。家康は、七赤年の2月10日生まれです。すなわち本命星は七赤ですが、月命星は八白です。江戸へ進出した年(天正18年)の九星盤をみてみますと、本命七赤金星に対して、東北東の八白は大吉方位ですが、月命八白に対しては、凶方(月命的殺方位)になります。つまり、この凶で江戸へ進出したため発生した家庭的な災いが、千姫や秀頼への非道となるわけです。方位は生まれ年と生まれ月の二つの作用が同時に起こりますので、したがって徳川家康は「外面がよくて、内面が悪い」といえる性格だったことになります。

 

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